100年企業から学ぶ!企業文化の醸成過程と経営者の役割

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 23歳、22歳、15歳の若者3名は2階建の借家の階下3室を工場にし、配線器具を製造する小さな製作所をスタートさせた。わずか一代で世界中に事業を展開させ、従業員25万人越えの日本を代表する大手電機メーカー企業に発展させた。これがパナソニック株式会社である(旧称:松下電器産業株式会社、以下:松下電器)。

 松下電器がここまで成功したのは、強い経営方針、経営戦略があるからであろう。創業者の松下幸之助氏は創業12年目で「綱領・信条」を制作し、この「綱領・信条」の精神が松下電器の「経営基本方針」として受け継がれてきている。この精神が企業文化である。本記事では、日本企業の代表例として松下電器の企業文化の醸成過程を見ていく。

連載「企業文化と経営者」

 1. 「企業文化」の意味とは?その機能とメリット・デメリット
 2. 100年企業から学ぶ!企業文化の醸成過程と経営者の役割
 3. 企業文化の進化?90年の歴史を覆したアメリカ企業経営者の決意
 4. 存続危機からのグローバル企業へ!転身を支えた中国の企業文化
 5. 企業文化を戦略的に醸成するには?経営者の大切な役割

目次

松下電器の企業文化の形成

創業と初期発展

 松下電器の創業者松下幸之助氏は「経営の神様」と呼ばれている。彼は尋常小学校4年生で退学し、わずか9歳で大阪に丁稚奉公に出た。船場堺筋淡路町の「五代自転車商会」の丁稚生活で、頭の下げ方、言葉遣いや行儀など、社会人または商人としてのイロハを仕込まれた。

 大阪市では全市に電気鉄道の線路が敷設されることになり、15歳の彼は未来が電気の時代だと予感し、自転車の将来に不安を持った。そこで電気事業に転業しようと決心し、大阪電灯に入社した。飲み込みがはやく、見習工として入社後わずか3ヶ月で工事担当者に昇格した。さらに22歳の時には、最年少で工事人の目標である検査員に昇進した。

 その時、体が弱いこと、家庭を作ったため生じた将来への不安、昔からのソケットを作りたいという夢、「実業で身を立てよ」という父親の言葉、色々な影響が重なった。彼は22歳で大阪電灯をやめ、独立すると決意した。そして23歳になった彼は、22歳の妻と、15歳の義理の弟と3人で松下電気器具製作所を創立した。松下電器は「斬新なものを安くつくる」と評判になり、いいスタートをきった。創立初年の終わり頃には、従業員は20名余りになった。これは1918年(大正7年)の話であった。

 当時、第一次世界大戦が終わり、経済界は不安定であったが、松下電器は順調に販売を伸ばしていた。松下氏は、この激動期に臨み、「松下電器が将来発展していくためには、全員が心を1つにしなければならない。全員が歩みを1つにして、1歩1歩着実に進もう」と考えた。こうして事業は順調に推移し、東京に小さな出張所を構えることになった。

 1923年に関東大震災が起こり、関東圏での販売はダメージをうけ、東京出張所も閉鎖された。しかし、着実に事業を進めるという理念のもとに、堅実な経営を進んでいるため、早くも回復できたのである。1927年に昭和金融恐慌が起こり、経済界は深刻な不況に陥った。しかし、松下電器は新商品の発売、特許出願、新しい電熱商品の開発と販売などを行い、順調な発展を続けていた。

綱領と信条の制定

 1929年に、松下氏は社名を「松下電気器具製作所」から「松下電器製作所」に改称し、それとともに、綱領と信条を制定した。綱領には、「松下電器は社会からの預かりものである。忠実に経営し、その責任を果たさねばならない」という考え方が含まれている。当時の松下電器はただの個人営業の町工場にすぎないが、創業者の松下氏は「社会責任を果たす」ことを基本方針に挙げたのは興味深い。

【綱領】

営利と社会正義の調和に念慮し、国家産業の発達を図り、社会生活の改善と向上を期す

【信条】

向上発展は各員の和親協力を得るにあらざれば難し、各員自我を捨て互譲の精神を以て一致協力店務に服すること

出典:https://www.panasonic.com/jp/company/pimsj/jobs/roots.html

 現在の綱領と信条は表現に多少の違いがあるものの、表している基本理念と、「企業経営活動の根本よりどころ」という位置づけには、変わりがないのである。

【現在の綱領】

産業人たるの本分に徹し社会生活の改善と向上を図り、世界文化の進展に寄与せんことを期す

【現在の信条】

向上発展は各員の和親協力を得るに非ざれば得難し、各員至誠を旨とし一致団結社務に服すること

出典:https://www.panasonic.com/jp/corporate/management/philosophy.html

新使命の闡明(せんめい)

 1932年、松下氏は松下電器の新使命を闡明した。この新使命を達成するために、建設時代10年、活動時代10年、社会への貢献時代5年、合わせて25年間を1節とし、10節を繰り返すという250年計画を提示した。

産業人の使命は貧乏の克服である。そのためには、物資の生産に次ぐ生産をもって、富を増大しなければならない。水道の水は価あるものであるが、通行人がこれを飲んでもとがめられない。それは量が多く、価格があまりにも安いからである。産業人の使命も、水道の水のごとく、物資を無尽蔵たらしめ、無代に等しい価格で提供することにある。それによって、人生に幸福をもたらし、この世に楽土を建設することができるのである。松下電器の新使命もまたその点にある

出典:50. 第1回創業記念式を挙行 https://www.panasonic.com/jp/corporate/history/konosuke-matsushita/050.html

 「水道水みたいに、いいものを安くたくさん提供する」という新使命は、松下電器経営にとって重要な理念の1つである。この新使命の考え方は、松下氏自身の幼い頃の貧乏な生活と、不況が続く現在の生活から由来したものであろう。この考え方は現在「水道哲学」という経営哲学にまとめられている。

遵奉すべき精神の制定

 1933年5月、松下氏は「事業部制」を実施し、「自主責任経営の徹底」と「経営者の育成」の2つは事業部制の狙いと指摘した。1933年7月、松下氏は「松下電器の遵奉すべき5精神」を制定した。1937年8月に新しく2精神が加われ、7精神となった。「産業報国の精神、公明正大の精神、和親一致の精神、力闘向上の精神、礼節謙譲の精神、順応同化の精神、感謝報恩の精神」である。この7精神は今でも遵奉されている。

松下電器の企業文化の浸透

日頃の行動に由来する

 創業初期、松下電器は最初に作った電気器具は「アタッチメントプラグ」であった。また続いて考案した「2灯用差込みプラグ」とともに、「新しいものを安く作る」と評判になった。また、1925年、角形の電池ランプを開発し、製造に専念するためランプの販売権を別の会社に譲渡した。しかし、その後松下氏はランプが実用商品になると確信するようになり、量産でコストを切り下げ、価格を安くして販売量を増やしていこうと販売会社に提案したが、販売権を有する会社に断られた。自身の判断を貫くために、譲渡した販売権を買い戻し、量産で安く販売することで成功した。1927年、スーパーアイロンを開発し、品質の良いもので量産し安く販売することで、当時贅沢品だったアイロンを一般家庭の必要品として市場を広げた。このような事業展開活動は、1932年闡明した「松下電器の新使命」、水道哲学を導いたと言えるであろう。

問題解決で具体化させる

 1929年、ニューヨーク株式市場の大暴落をはじめ、自然災害の影響、政府の緊縮政策などにより、日本の経済情勢は不安定で、工場閉鎖と従業員解雇が一般化していた。松下電器も経済不安定の影響を受け、売り上げが止まり、在庫がいっぱいになった。それでも「従業員は解雇してはならない、給与は全額支給する。工場は半日勤務にし、店員はストックの販売に全力を傾注してほしい」と指示した。従業員たちはおのずから一致団結し、全員が在庫販売を努力した結果、わずか2カ月でストックがなくなった。こういう従業員を守る行動は、松下電器の綱領と信条を具体化させたのである。

 1932年、ダンピングが横行し、ラジオ商品の販売価格が乱立していた。松下氏は「適正な価格で販売してこそ、メーカーと代理店の共存共栄、業界の真の発展がある」と訴え、多くの共感を得た。ちょうどその時期、ラジオ製造に重要な部分の特許を発明家が持っていたので、松下電器はこの特許を買収し、無償で公開した。また、1935年から価格競争が激しくなり、市場が混乱し、代理店と販売店の経営混乱を招いた。松下電器は共存共栄の理念に基づいて、正価販売運動を推進し、業界全体の経営正常化に貢献した。いずれも国家産業の発達と社会生活の改善という綱領の具体的表現である。

ひたすら伝える

 1933年、「朝会・夕会」を始めた。松下氏が朝会の時、全員の前でスピーチを行い、全員が松下電器の遵奉すべき精神を唱和し、終わりに社歌を斉唱する。この「朝会・夕会」は現在からみると、昔風で嫌われるかもしれないが、当時では企業文化を認知させ、従業員全員の心を1つにすることに役立ったであろう。

 1935年に基本内規を制定した。第2条で、「本内規ハ松下電器産業株式会社及分立各社ノ経営ヲ行フ指導精神ヲ内規化シタル根幹原則ニシテ…」とし、全社が1つの経営理念に基づく運営がなされねばならないと明示した。企業文化の位置づけと重要性を改めて強調したのである。

 第二次世界大戦が起こり、民需生産には大きな制約がかけられていた。動揺する情勢の中で、1940年に松下氏は「経営方針発表会」を開催した。そして、発表会で「国策遂行のため全力をあげて協力しなければならないが、一般国民のことを思えば、わが社伝統の平和産業も重大である」と訴えた。それ以来毎年の恒例行事として「経営方針発表会」が開かれ、その年の具体的な経営方針が明示されることとなった。

 機械的かもしれないが、遵奉すべき精神や社歌などを唱和することによって、企業文化を広範囲に認知させた。また、企業文化の企業経営における位置づけの確立と、企業経営方針の告知により、抽象的な企業文化が具体的になり、より浸透しやすくなった。

自ら人材を育成する

 松下氏は終始「事業は人なり」の信念をもち、人材の育成に力を入れていた。1934年に店員養成所を開校し、商業・工業課程の学力をつけるとともに、人間的修養の教授も行っていた。現在の「社員研修」の長期プロジェクトとして捉えていいであろう。自ら人材を育成することで、企業文化をよりよく浸透させ、自ら動く社員が育てられるであろう。

松下電器の企業文化の振返り

 松下電器の最高責任者は何人も変わったが、創業者松下氏が定めた綱領・信条と遵奉すべき精神は今も継承されている。現在のパナソニックグループは「A Better Life, A Better World」のブランドスローガンを掲げている。表現は全く違うが、理念には変わりがないのである。

 松下電器の企業文化の醸成過程を改めてみると、創業者である松下氏が主導して作り上げたことがわかった。まだ町工場の時、「社会責任を果たす」という深い道理を思索した。これは松下氏の生まれつきの経営才能か、苦労していた成長期から育んだものか定かではないが、自身の経営理念に強い思いがあったこそ、疑いなく信念を貫徹できたのである。

 会社創業初期の従業員がまだ少ない時期、明文化した企業文化は挙げられていないが、「従業員の生活を守り、社会責任を果たす」の経営活動を行っていた。企業規模が大きくなるにつれて、従業員全員と直接会って話すことができなくなり、企業文化を全員に届けるように、それを明文化し、綱領・信条と遵奉すべき精神を制定したのである。企業文化が明文化された初期段階で、企業文化を初期メンバーに浸透させ、堅実な企業文化信奉者を作り上げたのである。

 松下氏が掲げている企業文化は、利益を求めるのではなく、「従業員と関係会社と国がよりよい生活できることが企業の存在意義」であることを求めている。崇高な理念で、共感され、信頼され、長く継承されている。

 本記事では、日本の代表企業パナソニック株式会社の企業文化を紹介した。創業初期に作り上げた企業文化が100年後の今も継承されている理由は、健全な企業文化で従業員に共感され、信頼されているのがその1つである。創業者松下氏の企業文化に対する思いが強かったからこそ、初期段階で初期メンバーに広く深く浸透でき、堅実な基礎を作り上げられたのである。経営者の思いの強さが企業文化の形成と浸透に重要だとわかるのである。次回の記事では、米国の企業の例を紹介し、異なる社会文化における経営者と企業文化の関係を見ていく。

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